摩耶山や六甲山から生まれた豊かな水によって生み出されたみぬめの浦。
ここは、北海道の利尻昆布のような滋養が高い海藻が育つ、豊かで美しい海でした。
万葉学者であり文化勲章受章者でもある中西進先生によると「みぬめ」の語源は「海藻」を表しています。
古代、滋養が高い海藻である玉藻を収穫する労働は若い女性が担っていました。
玉藻を刈る実際の現場は、若い女性が集まり、賑やかで華やいた場所でした。
そして、その楽しい現場を「ミル」男たちも集まりました。
彼らも楽しく華やぎ、その中には、柿本人麻呂のような旅する都人もいたことでしょう。
(柿本人麻呂)
日本最古の和歌集『万葉集』には「みぬめの浦」を詠んだ歌が9首もあります。
「みぬめの浦」は歌枕として使われていますが、歌枕が美しい景色を伝えることが本来の役割ということを鑑みますと、「みぬめの浦」の歌枕は、この地が美しい景色と賑やかに華やいだ場所であったことへの時間的証明といえます。
みぬめの浦は、古代の歌人から谷崎潤一郎、富田砕花など、多くの有名な歌人に詠み称えられてきました。中でも柿本人麻呂のみぬめの歌は、賑やかに華やぐみぬめの浦に対して、急流の明石海峡に面し岩場が続く不毛の地である「野島の埼」を出し、旅の郷愁を感じる場所であると表現しており、華やかさと郷愁を対する歌として有名です。
7世紀になると、みぬめの浦は都である飛鳥の「中の関」の湊となりました(「上の関」は難波の湊、「下の関」は山口の下関の湊でした)。
人や物資流通の重要な中継地点であったみぬめの浦。澄んだ海水にゆらゆらと揺れる玉藻。そして行き交う船…さぞ賑やかで美しい景色だったことでしょう。
昭和6年頃より、みぬめの浜は、阪神電車の岩屋~元町間のトンネル工事の残土で埋め立てられました。
その上には神戸製鋼所の工場ができ、60年もの間神戸の産業を支えてきました。
現在阪神淡路大震災で工場は撤退し、HAT神戸として大きく変貌しました。
みぬめ脇浜エコロジー賛助会を発起した島田文六著書『失権』の中で、
父文一郎を亡くし、納骨で疎開先から戻ったシーンがあります。
昭和20年(1945)8月の神戸の空は、まさにみぬめの浦の夏空でした。
「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ」の柿本人麻呂から現代の谷崎潤一郎まで詠われた
みぬめの浦の夏空への憧憬こそ、みぬめ脇浜エコロジー賛助会発起の原風景でした。