古代より瀬戸内・難波・飛鳥の都をつなぐ重要な港であったみぬめ脇浜。
六甲・摩耶山より流れ出た土砂により形成された白砂の海岸は、その類まれな美しさにより、
敏馬の浦として数々の万葉の和歌に詠われてきました。
みぬめ脇浜は漁業や酒造りの地として、紀州と摩耶山をつなぐ海路の参詣口として、
明治期の開港後は外国人居留地のボートレースや海水浴場として発展してきました。
その後昭和初期には工場建設のために埋め立てられましたが、
平成7年(1995)の阪神淡路大震災を経て、住宅・文化地区に大きく転換しています。
現在、みぬめ脇浜はその姿はありません。
ですが、この地に暮らす住民の方々や地元企業で働く方々が末永く健康で安寧であることができるよう、
みぬめ脇浜の歴史と文化、そして本来は豊かであるこの地の自然を守っていきたい―そう願う理事長・島田文六により、
みぬめ脇浜エコロジー賛助会は設立されました。そのために、当賛助会は以下の三つに取り組みます。
みぬめ脇浜は、昭和初期に工場建設のために埋め立てられ、また阪神淡路大震災を経て、工場跡地は住宅・文化地区に大きく転換しましたが、古代に航海安全を祈って脇浜の高台に祀られた敏馬神社の鎮守の森は今も残っています。
敏馬神社は古代よりみぬめ脇浜を天災などから護ってきた由緒正しい神社です。
私たち賛助会は、敏馬神社社殿の修復事業を支援し、鎮守の森の整備・保全を図ることをめざします。
慶応3年(1868)に神戸は開港し、外国人居留地区ができます。やがて居留外国人の健康促進のために水の綺麗なみぬめ脇浜にボートハウスが建設、のちに兵庫県民の健康増進のために乗馬倶楽部もできました。近代化が進む明治以降、みぬめ脇浜は都市で暮らす住民の健康を図る地域としての歴史が始まります。
和歌山県が生んだ博物学の巨星・南方熊楠(1867-1941) は、明治政府の神社合祀の政策で、各地の鎮守の森を破壊されることに反対し、世界に先駆けて「エコロジー:生態学」の大切さを提唱しました。南方熊楠は、地域の鎮守の森が維持する植物の生態系が人間の生活や生命にとって大切なことを伝え、また地域ごとの「社会生態系」が人間性を維持していることを世界に発表しました。
平成7年(1995)の阪神淡路大震災後、神戸東部のみぬめ脇浜に世界保健機関(World Health Organization:WHO) 直轄の研究機関、WHO 神戸センターが開所されました。社会・経済・環境等変化が及ぼす健康への影響などの保健問題の研究を行い、世界規模での使命を遂行する機関です。
私たち賛助会は、南方熊楠が提唱した人間性を維持する「社会生態系」をエコロジーとして、みぬめ脇浜の健康と安寧を図る研究をWHO 神戸センターと協力し取り組むことをめざし、また資金的協力を行ってまいります。
※写真提供
タイトル:みぬめボートハウス(1925 年当時)。左手からメインパビリオン、ソーシャルホール、女性専用パビリオンがある。
提供元:Kobe Regatta & Athletic Club
( http://www.krac.org/ )